数字と感情のあいた

 

 副作用の間題について、科学の立場からの見方を述べてきた。

 

 科学で扱うデータは、死者何人、発生率何%という血の通わない数字だ。しかし実際に副作用で苦しむのは、あくまで生身の人問だ。イレッサの例では「副作用を恐れるばかりでは進歩はない」と書いたが、問質性肺炎によってただでさえ残り少ない命を削られ、苦しみながら人生の幕を引いた人が多数いたことも、目を背けてはならない事実だ。

 

 たとえ発生率○・○○一%の副作用でも、それに当たった本人にとっては確率一〇〇%のいわれのない苦しみでしかない。彼らはこの苦しみを与えた製薬企業や医師を呪うだろうし、彼らや彼らの遺族を納得させる言葉はこの世に存在しないだろう。

 

 人間というものは、実体の感じられない数字を見るより、具体的な実例を見る方が心が動くようにできている。悲惨な副作用の事例などとなればなおさらだ。「副作用被害を根絶せよ」という声が力を得るのは当然のことでもある。

 

 ただし、医薬が宿命的に不完全なものである以上、どうしても副作用をなくしたければ、医薬自体をこの世から消し去る他はない。個人的な経験には説得力もあるが、どうしても思い込み、誤りなども混じり込む。医薬の利益を最人限に引き出し、リスクを最小限に抑えるには、統計によって導き出されるデータを元に冷静に判定を行う他はない。

 

 個々の患者に対するケアは、いうまでもなく重要だ。しかし人類全体の医薬による利益を最人化するには、個人的経験という「分子」ではなく、あくまで服用者トータルでの結果という「分母」に注目しなければならない。統計データは一般には受け入れられにくいが、これを浸透させる努力はさらに必要だろう。数字と感情という、相容れない二つのファクターが深く関わるだけに、医薬にとって副作用は永遠の課題なのだ。

『医薬品クライシス』佐藤健太郎著より