ヘルベッサーのバルク輸出と売り上げロイヤルティー

医薬品企業の収益の源泉は新薬であり、新薬開発が難しくなる中で医薬品企業のビジネスモデルはますますハイリスク・アイリターンになっていきます。日本の医薬品企業の収益構造がどのように変化してきたかの見てみましょう。
過去10年間、ビジネスモデルが大きく変化しの他の海外事業です。売上高の伸長を支えたのは海外事業であり、海外事業からの利益の伸びは国内事業を上回ったと考えられます。海外からの収益を最大化するために、大手医薬品企業はリスクを取りながら自らの手による自社開発・販売へ踏み出していきました。
いっぽう、国内事業は成長性はありませんが、引き続き医薬品企業の収益を下支えするホームベースです。こちらは医薬品メーカーから医薬品卸、そして医療機関へ薬がわたるという流れに大きな変化はありません。こうした中で医薬品卸は、4大卸(メディセオ・バルタックホールディングス、スズケン、アルフレッサ、東邦薬品)へ再編、集約されました。医薬品企業もアステラス製薬第一三共大日本住友製薬田辺三菱製薬などの合併はあったものの、営業力を中心とするビジネスモデルそのものは大きく変わっていません。
1961年に国民皆保険制度が導入され、医療用医薬品に対する需要は飛躍的に増大します。医療機関へのアクセスが容易になり、医師による治療が受けやすくなったことによる当然の成り行きとも言えるでしょう。
ただ、当時の日本の医薬品産業の基盤は脆弱で、医薬品の製造や開発などのベースとなる技術を欧米に頼っていました。特に新薬の開発能力では圧倒的に差を付けられており、自前の医薬品産業育成が求められた時代でした。
経済発展とともに、日本の医薬品産業も自前の研究開発力を身に付けてきます。当時はまだまだ改良型の新薬開発が多かったとはいえ、日本初の医薬品の海外進出の先駆けとなった田辺製薬の降圧剤ヘルベッサーが登場します。
1976年に、田辺製薬は米マリオン社(現サノフィ・アベンティス)へ、ヘルベッサーの米国での開発・販売権を導出しました。ヘルベッサーは1982年11月に米国で発売され、1992年11月に独占期間が切れるまで、田辺製薬はヘルベッサーのバルク輸出と売上げロイヤルティーから多大な利益を享受することができました。
当時に日本の医薬品企業が海外向けに製品を導出すること自体が珍しい時代でしたが、ヘルベッサーは欧米市場でも降圧剤の第一選択薬的な存在になったことで、海外市場進出の成功例として先鞭をつけたことは間違いありません。
その後、導出の対価としてロイヤルティーを受け取るだけでなく、相手側の新薬候補品を導入する、いわゆるクロスライセンス契約も活発に行われるようになりました。
ヘルベッサーに続く成功例としては、1981年に山之内製薬(現アステラス製薬)が消化性潰瘍治療剤ガスターをメルクへ、1985年に三共(現第一三共)が高脂血症治療剤メバロチンブリストル・マイヤーズスクイブへ導出したケースが挙げられ、現地売上げが10億ドルを上回るグループロックバスターとなりました。
最近では塩野義製薬高脂血症治療剤クレストールの全世界での開発権と販売権をアストラゼネカへ導出しました。2008年度のクレストールの売上げは35億ドルを上回り、その結果として同社は年間400億円のロイヤルティーを受け取ることができるようになります。